みたけ台町内会

会長の言葉

最近、新聞やインターネットで町内会に関連した事柄が頻繫に見受けられます。

背景に、町内会役員の担い手不足や町内会への加入者減少、そして町内会の解散等が大きな話題になっているからです。

みたけ台町内会も同じ悩みを持っております。

特に、役員の担い手不足やイベント等へ実行役員として参加したく無い・・・等があります。

そこで、みたけ台町内会は役員不足からの人手不足や、省資源化等を目指し、DX化(デジタルトランスフォメーション)の導入で対応します。

DX化は、会社を例にとると「DX化で会社を立て直す・変革する」です。

町内会もある意味企業同様団体ですので、デジタル技術を活用して町内会の組織改善/役員の減少対応、

町内会活動の改革/ボランティアの活用などで、少ない役員でも従来同等以上の機能を確保して行きたいと思います。

町内会の大きな役割は、安全で安心して住み続けられる地域を目指し、住民の皆さまに必要な情報をタイムリーに提供すること、災害発生時に迅速な情報提供と安全・安心な避難所運営です。

その為、DX化の1つのツールとして、皆様に使って頂ける新しいホームページを立ち上げました。

この1番の目的は、災害発生・凶悪犯罪等発生時に迅速にプッシュ通知で情報発信(町内会から皆様のスマホ等に一方的に避難情報や凶悪犯罪者の町内地域への進入等が届く)出来ること、そして皆様に必要な情報をいつでもどこでも見られる・得られる体制です。

また、ブロック長や組長のお仕事削減も進める一環として「町内会回覧の廃止」、「町内会会費の振り込」、「バス旅行の申込のペーパレス化」・・等も推進していきます。

また、住民参加のイベントは積極的に行いますが、役員は企画・計画に特化して実行はボランティアを募集して、積極的活用して行きます。ボランティアに参加することで会員の交流・意志疎通を促し「防災の基本は顔の見える関係」を推進して、「みたけ台に住むようになり、お友達が増えた」を目指します。

沿革

青葉区の歩みとみたけ台の沿革

現在の青葉区の区域は、弥生時代の朝光寺原遺跡や古墳時代の稲荷前古墳、市ケ尾横穴古墳群な

どさまざまな遺跡が点在し、歴史の古さを物語っています。

江戸時代には、東海道の脇往還として大山街道の通った荏田周辺はにぎわいを見せましたが、昭和30年代後半の高度成長期を迎えるまで、その周辺は静かな農村地帯でした。

昭和41年の田園都市線の開通を機に、急激な人口増加が始まり、昭和44年には緑区が誕生しましたが、当時の青葉区域の人口は5万人程度でした。

昭和50年(1975年)9月28日 土地区画整理事業に伴い、横浜市緑区上谷本町の一部を編入して新設 横浜市緑区みたけ台の誕生

その後も、大規模な宅地開発が進み、昭和61年には緑区役所北部支所が開設され、平成6年11月6日に青葉区が誕生しました。2024年11月で区制30周年となります。

みたけ台の遍歴/由来

昭和50年の土地区画整理事業の施行に伴い、上谷本町の一部から新設した町。古くは都筑郡上

谷本村であった。明治22年の市町村制施行の際、寺家村・鴨志田村・成合村・下谷本町・鉄村・黒須田村・大場村・市ケ尾村・北八朔村・西八朔村・小山村・青砥村・下麻生村飛地と合併して中里村大字上谷本となり、昭和14年の横浜市へ編入の際、上谷本町となる。平成6年の行政区再編成に伴い、緑区から編入。横浜市青葉区の誕生。 

町名はこの地域に古来より美しい竹林が多かったため「美竹(びたけ)」から「みたけ」になり、「みたけ台」と名付けたと言われている。

みたけ台町内会について

 みたけ台町内会は昭和60年4月1日に発足した。

青葉区のほぼ中央に位置するみたけ台町内会は、みたけ台と上谷本町の一部で構成し、およそ2,300世帯の人々が暮らし、15歳未満の年少人口比率は区内でも高く、平均年齢も40歳台以下です。

区域にはみたけ台小学校とみたけ台中学校の2校があります。最高地点のみたけ台小学校に連なる尾根道から北北東に広がる斜面に住宅地があります。休日には緑豊かなみたけ台公園に親子連れの楽しそうな声が響きます。

鶴見川右岸に続く平坦地には水田や梨畑があり、昔この地で養蚕が盛んであった証の桑の木も多く見られます。秋には焼き芋大会を公園で実施する他、隣接する3町内会で開催する盆踊りや餅つき大会は、地域の多くの人々が協力して盛り上げます

ほかに、みたけ台中学校はみたけ台町内会を対象とする防災拠点です。町内会役員と民生委員児

委員ほか各種委員は、この防災拠点の中核メンバーです。区域に住んでいるメンバーと連携して、安全で快適に暮らせる街を目指しています。

ロゴマークについて

下記ロゴマークを設定しています。